孔子とは?

孔子は、幼くして両親を失い孤児として育ち、苦学して礼学を修めた流浪の学者です。孔子の思想を学んだ弟子の数は3000人にも及んだといわれています。孔子およびその思想は、その後の中国だけでなく日本、アジア諸国に多大な影響を与えました。孔子は、古代中国(紀元前6~5世紀 春秋時代)の思想家で、儒教(じゅきょう)の始祖です。

論語とは?

論語は、2000年以上前に、中国で記されたもので、特定の作者はいません。論語は、孔子(および 孔子の弟子)の言葉、行動の記録を集めた言行録で、孔子の死後にまとめられたものです。論語の内容は、古代中国の内容ではありますが、現代でも通用する「生きるために必要な言葉」と言われています。

論語に登場する孔子(紀元前552~479年)が生きた春秋時代の中国は、国と国、人間と人間が武力で争いをおこない、互いの領土や地位を奪う「弱肉強食」の世の中でした。孔子は、争いの絶えない乱れた世を憂い、仁(じん)という思想を唱えます。仁とは、思いやりの心のことです。孔子は、仁をもって、乱れた世から、秩序を回復した調和のとれた世にしていくことを説きました。

論語は 20編 512文あります。論語は、20編にまとめれていますが、それぞれの編の内容はまとまったものではありません。編の内容は文の区切りにより諸説(本サイトの文は 512)ありますが、500前後の文があります。同一の編の内容は、備忘録のように、関連のないものがほとんどです。

論語の各「編」の名称は、先頭に漢字2文字(または3文字)に、漢数字がついた形式です。先頭の漢字2文字(または3文字)は、その編の最初の文章の冒頭文字であり、特に意味はありません。 編の名称、読み仮名、編に含まれる文章の数は、以下の通りです。

孔子の一生

孔子の一生をまとめました。

誕生

周王朝・魯の国に生まれ、貧しい家で育つ。幼少年期に儀礼作法、言葉を学んだ。

15歳 志学(しがく):吾十有五而志于學

学習した言葉、文献、知識が活用できる道に進みたいと決心した。

30歳 而立(じりつ):三十而立

世に一人立つ決心をした。礼学、古典学の教師として私塾を開き、学生に詩書礼楽の教育を始めた。他人に認められないつらい30代を過ごす。魯の君主・昭公、魯の実権を握る重臣の家系・三桓氏(季孫氏、孟孫氏、叔孫氏)とのつながりを持つ。

40歳 不惑(ふわく):四十而不惑

魯の君主・昭公が亡くなり、定公が後を継ぐ。定公、重臣に注目される。陽貨(ようか、陽虎)が三桓氏に反旗を翻して魯の実権を握ったがその後やぶれ、斉に追放された。

50歳 知命(ちめい):五十而知天命

定公が孔子を中都の行政長官に任命した。その後、魯の中央政府・政権担当者の一人となった。道徳的にしっかりとした政治をおこない、魯の国を建てなおした。隣国(斉)からの道徳を破壊する作戦(微子第十八_04)に嫌気がさし、孔子が辞職。魯の国を離れて10数人の弟子と流浪の旅を始めた。

60歳 耳順(じじゅん):六十而耳順

近くの大国、小国、南方の国などを流浪。孔子と弟子たちは魯の国に戻った。孔子の息子・鯉(伯魚)が亡くなる。

70歳 古希(こき):七十而從心所欲不踰矩

孔子は国老(顧問)として遇された。教育、礼学、古典などの仕事のに専念。孔子の弟子・顔回(がんかい)が亡くなる。孔子の弟子・子路(しろ)が亡くなる。

73歳

孔子が亡くなる。孔子の弟子・子貢(しこう)は6年、喪に服した。

子曰く

論語では「子曰く」というの書き出しの文が多いです。子=先生、曰く=言った(おっしゃった)という意味ですので、直訳すると「先生がおっしゃった」となります。論語の場合は、先生=孔子ですので、「孔子がおっしゃった」となります。孔子の本名は、氏名が「孔」、諱(いみな)が「丘」、字(あざな、あだな)は「仲尼(ちゅうじ)」です。孔子とは氏名の「孔」と、先生の「子」をあわせた尊称です。

論語と漢文

論語は中国でできた言行録ですので、原文は「漢文」です。 漢文は、日本人には読みにくいため、漢文の漢字にひらがなを足した「書き下し文」(または、「読み下し文」)というものが考えれました。しかし、書き下し文では、元々の漢字の読み方がわからない場合に音読に困ります。日本人向けの書き下し文も、作成された時代や作成された方の考えにより、いまでは意味が伝わりにくいものも多いです。



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